17 受難節前第3主日(2-17_2-22) 〔テーマ:受難予告〕
2015年06月03日 15:08
受難節前第3主日(2・17~2・22)(テーマ:受難予告)
〔公現日後主日と重なる場合は、公現日後主日を優先する〕
(頌栄)
入念にしかも細部まで完全な、救いのご計画を立てられ、それを主イエス・キリストによって完全に実行して下さった父なる神様。あなたの全能の知恵と力を崇めます。
(告白)
主イエスは、弟子たちの信仰告白の後、山上の変貌に先立ち、第1回目の受難予告をなさいました。「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている(マタ16・21)」。
ペトロは、何を言っておられるのか理解出来ず、主イエスをいさめました。主イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言ってペトロを叱られました(マコ8・33)。
まことに私たちは、このペトロと同じです。主イエスについても、神の深遠な救いの計画についても、思いさえいたらないのです。私たちはまことに思慮分別のない愚かなものです。私たちは、目の前のことしか見えません。私たちの命の将来さえ見通せないのです。私たちの愚かさをお赦し下さい。
(赦罪)
主イエスは、さらに、弟子たる者の心構えを語られ「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(マタ16・24)」とおっしゃり、また「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである(マコ8・35)」とおっしゃいました。まことに厳しいお言葉です。しかし、ここにこそ罪(つみ)赦された者の姿があることを悟らせて下さい。
主イエスは、さらに「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか(ルカ9・25)」とおっしゃいました。
まさに、主イエスのおっしゃる通りです。私たちの「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります(詩90・10)」。「たとえ全世界を手に入れても」「瞬く間に」飛び去り、私たちは塵に帰ります。私たちの肉の目で見ているものは、みな朽ち果て、滅びゆくのです。
(感謝)
しかし、主イエスは「自分を捨て、自分の十字架を背負って」主イエスに従う者を招いて「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタ11・28)」とおっしゃり、永遠の安らぎを与えて下さいます。心より感謝いたします。
(歎願・執成し、祈願)
願わくば、罪にまみれた生まれながらの古い私に死に、主イエス・キリストのご復活の命を受けて新しく生まれ変わり、主イエス・キリストが私の命となって下さい。
願わくば、主イエスの御受難の中に、私たちのあるべき姿を見せて下さい。神の御心にこそ、私たちの人生のすべてがあることを悟らせて下さい。人間のことを思うのではなく、神の御心のみに私たちの心を集中させ、御言葉に心を開いて下さい。
病のため、高齢のため、また、やむを得ずして、この礼拝に出席できない兄弟姉妹に慰めと平安を与え、一時(ひととき)でも主を仰ぐことが出来るように導いて下さい。
旅の内にある兄弟姉妹、他住の兄弟姉妹、全世界の各地で困難を覚えておられる兄弟姉妹をお守り下さい。
(結び)
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。