【2023年6月11日】

2023年06月14日 21:56

「主の沈黙」マルコによる福音書14章53~65節


今日の御言葉には、イエス様が大祭司のところへ連れて行かれ、尋問(じんもん)を受ける内容が出ます。大祭司をはじめ、祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来ました。さらに、イエス様に不利な偽証をするために多くの人も集まりました。このことをよく考えますと、彼らは、イエス様を捕まえるために、イエス様に罪を着せるために綿密緻に準備していたという事が分かりす。

祭司長たちと最高法院の全員は、イエス様を尋問(じんもん)し、イエス様の大きな罪として神聖冒瀆の罪を着せようとします。しかし、この状況の中で突然、ペトロについての話が出ます。54節を見てください。「ペトロは遠く離れてイエス様に従い、大祭司の屋敷(やしき)の中庭(なかにわ)まで入って、下役(したやく)たちと一緒に座って、火にあたっていた。」と書いてあります。ペトロの突然の出現(しゅつげん)は、まるで、映画を見ますと、‛カメオ出現'のように見えます。びっくり出現です。しかし、このペトロの出現も深い意味があるので、ここに書いてあるのでしょう。

ペトロは今、大祭司の屋敷(やしき)の中庭(なかにわ)まで密かに入ってイエス様が尋問(じんもん)を受けられる姿を見ています。しかし、このようなペトロの心理を表わす単語が出ます。54節最初の部分をもう一度見てください。「ペトロは遠く離れて」と書いてあります。「遠く離れて」という単語は距離の間隔(かんかく)を表わす言葉ですが、ここでは何よりペトロの内面を見ることができる単語として使っています。すでに話しましたが、ペトロはイエス様に「ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と誓(ちか)いました。その誓に対しての責任とイエス様の代表的な弟子としてイエス様のことが心配になってイエス様が連れて行かれる道を遠く離れてついて行ったのです。しかし、このようなペトロの行動は、本当にイエス様に従ったということではありません。このようなペトロの行動は、イエス様の苦難に従う姿ではありませんでした。以前、イエス様がペトロと他の弟子に現わされこのように言われました。「私について来なさい。人間を取る漁師(りょうし)にしよう。」その時、ペトロと弟子たちはすぐに網(あみ)を捨ててイエス様に従いました。すなわち、自分の人生をイエス様に任してイエス様に従ったのです。そして、ペトロと弟子たちは3年間、イエス様と一緒に過ごしながらイエス様に従いました。この姿が正しく従うという事です。しかし、今のペトロの姿はどうでしょうか。全く違います。今、ペトロはイエス様がどうなるかと見るためにイエス様について行ったのです。変わってしまった弟子の姿が見られます。

私たちはどうでしょうか。イエス様を通して救いの喜びを与えられ私たちは、心を尽くして忠実にイエス様に従っているのでしょうか。それともペトロのように遠く離れてイエス様について行っているのでしょうか。私たち弱い人間は、自分の利益や環境によってイエス様に従う姿が変わります。イエス様に従うことが自分に不利になるとペトロのように遠く離れてイエス様について行きます。例えば、多くの物質や時間の損害がある時、人々に疎外される時、色々な迫害がある時、また、自分の未来に邪魔になると思う時は、遠く離れて観望(かんぼう)します。それが弱い私たち人間の現実です。しかし、このような姿は、本当にイエス様の弟子の姿ではありません。このような姿は聖書に何回も登場する多くの群衆や群れと同じです。彼らもイエス様に教えられ、イエス様が行われた多くの奇跡を経験しました。また、御国に関してたくさんのことを教えられました。しかし、彼らは、弟子たちのように変えられ、献身し、イエス様に従うことができませんでした。

皆様、イエス様が「わたしについて来なさい。」という御言葉の意味は、実はイエス様のように生きなさいという意味です。そうすると、私たちは天の冠を受ける祝福が与えられるのです。ヨハネの黙示録2章10節の最後の部分にこのように書いてあります。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授(さず)けよう。」 


今日の御言葉に出るイエス様の裁判を見ると、一つの特徴があります。何でしょうか。大祭司や最高法院の全員がイエス様に不利な証言をする人を立てたということです。多くの証人たちがあちこちで立ち上がってイエス様に不利な偽証をしましたが、彼らの証言は食い違いました。すなわち、イエス様と関連することが一つもありませんでした。それらのすべてを見た大祭司が立ち上がり、直接尋問(じんもん)します。60節です。

「何も答えないのか。この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」

このように言いながらイエス様が話されるように誘導(ゆうどう)します。大祭司の意図は、イエス様の話からイエス様を殺す証拠(しょうこ)を探し、イエス様を十字架の上で殺すための意図です。しかし、この偽りの証人たちと大祭司に対してのイエス様の反応はどうでしょうか。61節を見ますと、イエス様は黙り続けて何もお答えになりませんでした。沈黙をされるイエス様の姿は、裁判所で自分を弁護する普通の人の姿と全く違います。人々は、悔しく不当な目に合った時、正当を正すため、自分を守るために一生懸命弁論します。裁判所の中で行うすべての裁判はそうではありませんか。皆が自分を守るため大声を出します。裁判所ではなくても日常生活の中でも自分が損害を受けたり、権利を侵害(しんがい)されたり、侮辱(ぶじょく)をされたりする時、大声を出すことだけではなく、悪口を言いながらけんかをしたりもします。これが私たち人間の姿です。イエス様は沈黙されますが、罪人である私たち人間は大きな声を出します。心の中にある怒りをもっと大きく表します。イエス様と私たち人間の姿が全く違います。

イエス様は、ご自分の裁判に対して話したいことが多くありました。イエス様の裁判は不公平な裁判であり、不法的な裁判です。今の時代の法律で裁判をすれば、イエス様は100%無罪となります。なぜでしょうか。いくつが例をあげますと、まず、イエス様の裁判は夜に開かれた不法的な裁判です。注釈によりますと、ユダヤ人の法律において重要な訴訟(そしょう)、訴(うった)えは、夜間裁判が禁止されているそうです。二つ目、イエス様の裁判は、公式(こうしき)な裁判所ではなく、大祭司の家で開かれたからです。三つ目、イエス様には弁護士がいませんでした。四つ目、重要な裁判は数日にもにわたって開かれますが、イエス様の裁判は一夜(いちや)にしてすべてが終わったからです。五つ目、普通の裁判は祝日に開かれませんが、イエス様の裁判は過越際に開かれたからです。このように不法的な要素(ようそ)が多くあったのに、イエス様は何の抵抗もされず、屠畜場(とちくじょう)に引かれる一匹の小羊のように黙り続け何もお答えになりませんでした。ただ、沈黙されたのです。私たち人間は、自分に少しでも害が及ぶような事が起こるのであれば、大声を出します。もちろん、私たち人間が出す大声は、正当なこともあるかもしれません。


聖徒の皆様。

私たちは、イエス様に従っています。しかし、私たちの姿はイエス様の姿と違う時が多いのです。イエス様に従おうとしますが、イエス様から遠く離れている時があります。

イエス様が多くの偽りの証人たちの前で沈黙された理由は、苦難の杯を飲もうと、すなわち、十字架の上で死のうと決心されたからです。神様の怒りをご自分が受けようとされたからです。ですので、どんなに大きな偽りの証言の声が聞こえて来てもイエス様にとっては何の意味もなく、沈黙されることができたのです。

私たちもイエス様に従おうと決断し、イエス様の苦難の杯を共に飲もうと決心したのならば、どのような損害と迫害、また苦難と侮辱を受けた時も大声で声を出すのではなく忍耐しながらイエス様に従わなければなりません。詩編38篇14-15節にこのような御言葉が書いてあります。「私の耳は聞こえないかのように聞こうとしません。口は話せないかのように開(ひら)こうとしません。私は聞くことのできない者、口に抗議(こうぎ)する力もない者となりました。」 神様を信じ、イエス様に従う信仰者は、苦難の中でも沈黙する知恵がなければなりません。


それでは、どのようにしてこのことが可能になるのでしょうか。それは、現在ではなく未来を見るのです。そうすると、イエス様に従うことができ、苦難の中でも沈黙することができます。今日の御言葉を見ますと、イエス様は全く覚えのない偽りの証言をする人たちの証言に対し、一言も言わず、沈黙されました。ただ、イエス様ご自身が誰なのかについては答えられました。62節を見てください。「イエスは言われた。『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。』」 今、イエス様の視線は、ご自分を囲まれた祭司長、律法学者、長老、また多くの偽りの証人たちに向かっていませんでした。イエス様の視線は、これから来る将来の栄光にありました。その時が来るとイエス様は、神様からすべての権威を委任され、審判主として来られます。たとえ、今はゲッセマネの侮辱を受け、十字架の苦難が待っているとしてもイエス様の視線は、侮辱と苦難を超え、将来与えられる天の栄光を仰ぎ見ているのです。


私たちの視線はどこに向かっていますでしょうか。私たちを囲んでいる不法と私たちを怒らせ、不平不満するようにするすべての環境に私たちの視線を置ていませんか。そうであれば、天の栄光に私たちの視線を置かなければなりません。そのために私たちは、この世で生きる人の基準ではなく、御国の民としての基準に合わせて生きなければなりません。もちろん、簡単ではありません。しかし、イエス様のようにこれから来る主の審判を仰ぎ見、将来の栄光を仰ぎ見ながら私たちの視線をそこに向けるとできるのです。ゲッセマネの侮辱と苦難を超え、これから雲に乗られ再び来られるイエス様に視線を置き、忍耐強く、信仰を守りながら生きて行きましょう。


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